#30 和歌
「やった〜遂に小町を破ったぞ〜!!」
十二支サイドは魁からの初ヒットを大いに喜びあった。
打った蛇神は塁へと足を運ぼうとするが
線から逸れて歩むどころか
マウンドの近くまで行ってしまっている。
「待て」
魁が蛇神の肩を掴んだ。
「お主もしや、目が見えぬのか…」
があそこまで必死に止めていたのは
そういう訳だったのか。
「蛇神先輩!!」「蛇神君!!」
と牛尾がベンチから飛び出し
魁と蛇神にすぐさま駆け寄った。
「、この者を2塁まで導いてやれ」
魁は蛇神の肩から手を離し、そして牛尾とに預ける。
「うん」
は魁の言葉に頷きを返した。
「式子内親王だったな」
は先ほどの一首の事だとすぐさま気が付く。
「うん」
また頷いた。
「これ程までの打席に賭けた思い、拙者は忘れないと伝えておけ。
今の状態では聞き取れてはおるまい」
「うん」
「……泣きたいか?」
「…うん。…………でも、泣かない」
今はまだ、泣くべきじゃない。
「そうか」
魁の返答はそれだけだった。
牛尾が蛇神の腕を肩に回し、は後ろから
支えるように2塁へとゆっくり足を運んでいく。
塁を踏み、そしてそのまま医務室へと
向かうその背中を魁は見送っている。
蛇神と、言ったなあの者は…あの歌は式子内親王
が神に仕える身でありながら藤原定家への
愛情を持った苦悩を歌ったもの。
あの歌は野球に賭けるだけでなくへと
向けたものでもあったのだろうか。
兄としては、妹が立派な男に好かれたと
喜ぶべきであろうに……。
魁が浅黄色の上着の襟を掴む。
それは、何の為であろうか。
それ以前に仮に蛇神や他の者がへと恋情を抱いていたとしても、
自身からその事に気づく可能性は零に限りなく近いがな。
流石、長年の兄はしていない。
医務室に着くと蛇神をベットに座らせ、
はタオルで目から流れ出た血をふき取った。
目を洗浄し、滅菌ガーゼを被せて
圧迫しないように包帯を巻いていく。
「これで、出来る処置は終わりました」
「僕は次の打席に行ってくるよ」
牛尾はパタンとドアを閉めた。
「まったく。僕は何をしてるんだろうな」
普通好きな子とそのライバルを二人きりにしないのに。
それでも、今回ばかりは抜け駆けも許して
おかなくてはならないだろう。
「まだ君は誰も選べないだろうしね」
そしてベンチへと向かって牛尾は歩いていく。
医務室に残った2人にはなんとも
居心地の悪い沈黙が漂っていた。
「すまないな、殿」
蛇神はベットに横になりながら謝罪した。
「私のこと、名前呼びになりましたね」
「駄目か?」
「いいえ、まったく構いません」
「……怒っているのか?」
「そうかもしれませんね」
「すまない」
「謝るの何回目でしょうね。……怒ってても、責めてませんよ。
魁兄から伝言です。『これ程までの打席に賭けた思い、
拙者は忘れない』だそうです」
「しかと聞いた。殿、猿野を呼んではくれないか?」
「小町の正体ですね。わかりました」
伝えたい事に見当をつけても医務室を出た。
「お猿君、今すぐに医務室に行って。蛇神先輩が呼んでるから」
はベンチのドアを開けるとすぐに猿野へと伝言を伝えた。
バッターボックスに牛尾が立っている。
魁が振りかぶって投げた。
ここで蛇神君の死を覚悟した心意気に答えられない様なら
僕が主将でいる資格も君へ会わす顔もない!!
グワアキィィ
打った!!しかしショート正面でワンバウンド後に緋慈華汰が捕る。
牛尾は急いでファーストへと走る。
緋慈華汰がファーストへ投げ、同時にスライディングをかける牛尾。
「うあぁぁぁ!!」
ザザザ パァン
送球、タッチどちらとも同時に見える。
両者とも、固唾を呑んで審判の判定を待つ。
「セ…セーフ!!」
その判定に十二支が湧きだった。
「「「ワアァァァ」」」」
「牛尾キャプテ〜ン最高っす!」「さすが主将!感動しました〜!!」
「なぁ牛尾のヘッドスライディングなんて滅多にないぜ!!」
「うむさっきの蛇神のプレイの事もあったからこの打席
外すわけにはいかなかったのだ」
同じ3年もその光景に目を見張った。
「うっし!!牛尾先輩ナイスガッツ!!」
それでこそ我らが主将だよ!
「ケッボンボンが必死だね。真っ黒になっちまって」
御柳の悪態に屑桐が叱責を入れる。
「茶化すだけなら黙っていろ」
少しは、勝利に貪欲さが出てきたか。
『キャプテン牛尾君の執念のスライディングが望みを
繋げました〜!!8回表十二支高校ツーアウトながら1,2塁!!
まだ勝負は分かりません!!』
そうよ、次はお猿君。
あいつの土壇場での力量は数倍に跳ね上がる。
それに望みを賭ける!!
通路からカツカツ急ぎ足の足音が聞こえてくる。
開きっぱなしのドアから1つの影が姿を現した。
「気合は?」
への返答より先に
ザバアァァァァ
と猿野はバケツの水を被った。
「十分!!いくぞ〜〜!!!」
びしょ濡れの体を奮い立たせバット
を握り打席へと入っていく。
は猿野が残していったアンダーシャツを拾い上げ、
ベンチの背もたれに掛けておく。
「馬鹿なんだか頼れる奴なんだか、
今でも判断つきにくい奴だよ」
十中八九どっちともだけどね。
迷わず、恐れず、ただ前だけを見ろ。
今はそれでいい。
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